花一匁

 

 

「ん…」

山崎が目を覚ますと、目の前に沖田の腰がある。目をこすって起きあがると沖田は少し振り返った。

「よう」
「…まだ四時じゃないですか。何してるんです素っ裸で…」

簡単に一重を着て、山崎は夜着にからまった沖田の着流しを解く。それを肩にかけてやりながら覗き込むと、彼は足の爪を切っていたようだ。その片腕を取って袖に通す。

「眠くないんですか」
「眠くない。爪が布団にひっかかんだ」
「あぁ」

まだうとうとしながらの山崎がもう一方の手も通させる。後ろから前を合わせて、とは言っても沖田は足を開いているのでうまくいかない。

「そういや昔の夢を見ました」
「昔?」
「あなたに拾われた日の」
「あぁ…」

沖田は昔死にかけの子どもを拾った。生き物かどうか分からない格好であったが、そうなる前まで跳ね回っていたのを見ていた。そこには沖田が欲しかったものがあったと思うのだ。…そして山崎は滅多にそれを見せない。
人斬りの才を、彼はこの職にあっても厭う。

「…山崎」
「はい?」
「寝るか触るかどっちかにしろ」
「んー…」

自分で合わせたはずの袂から、山崎の手が入ってくる。沖田が背筋を伸ばすと肩に唇が触れた。

「眠いのは眠いんですけど」

重そうに体を起こし、山崎は沖田に覆いかぶさる。自分で着せたはずの着物の肩を下げ、沖田の肩に頭を預けて手を腰に回す。肩から背中に触れる山崎の髪がくすぐったい。

「俺隊長の名前を必死で練習したなァ。沖田はともかく、総悟ってのが難しくて」
「あぁ、ありゃ俺もしごかれた」
「隊長自分の名前だけ綺麗に書けますよね」
「書けるんじゃねえ書くんだ」
「はは、」

山崎の手が沖田の着物を手繰り寄せた。指先が腿に触れ、そこからぞくりと走ったものに耐えきれずに爪切りを落とす。つ、とその手が内へと滑った。くんと沖田が背を反らし、息を吐く。
そして…そして山崎はそれきり動かない。

「…山崎、」
「…」
「…山崎?」

静かな呼吸。沖田が振り返る。
山崎がゆっくりと布団に落ちていった。

 

 

 

*

 

 

 

朦朧とした頭の中に誰かの声が響く。頭の内壁に当たって跳ね返り、どこから聞こえるのかよく分からない。
近藤さん、どうした総悟、うわっお前何拾って来やがった、何でもかんでも拾ってくんじゃねぇよ、だって生きてんだぜィ、おーい…どうするトシィ、どうするも何もうちにゃこれ以上余裕ねぇだろうが、それなら土方さんが出て行けばいいんでさァ、こいつの方がよっぽど役に立つぜィ、なぁ近藤さん、しかしなァ、親はどうした親は、そんなもんいたって関係ねェ、見りゃわかるだろィ、頼むよ近藤さん、俺ァこいつと────────

そこで目が覚めた。
山崎は、…まだ山崎と言う姓を与えられて間もない少年は、しばらく茫然と天井を睨んでいた。木目が般若に見える以外はシミひとつない綺麗な天井。背中に感じる固さは畳で、そっと手を動かすと指先はい草に沿って容易に滑る。
ゆっくり起き上がり、開け放たれた障子から庭を見た。四季折々に目を楽しませることが出来るように配慮された庭、先日庭師が揃えていた松を見遣り、垣根を越えるたくましい枝振りを目で追う。山崎には芸能を解する知識は今のところ備わってはいないが、漠然といいものなのだろうとは捉えていた。
砂利を敷き詰め川の流れを模した地面に小鳥が降りる。チチ、チ、と首を傾げながら砂利の上を跳ねる小鳥が、雀と言う名であるのを知ったのは最近だ。捕らえて食う物ではないと知ったのも。未だに食べる物とそうでない物の区別は難しい。初めの頃は日に三度出される物こそ食料に思われなかった。箸もうまく扱えない。それでも根気よく待ってくれる「父」と「母」に、山崎はどうも居心地が悪く最近は物を食った気がしなかった。
容易にことを考えすぎていたと言うことにようやく気付いた最近では、もう逃げ出すことは出来ない程度に新しい生活に慣れてしまっている。安眠を覚えたのも最近だ。大の字で眠り転けていた今も、この通り全くの無傷。急に庭の雀が飛び立った。それと同時に山崎は縁側から飛びずさって離れている。

「…またかィ」

庭に現れたのは、自分と同じ頃の少年。否、それは外見だけであり、自分の体の未発達故に健全に育った彼の方が年下だ(尤も山崎の年を見立てたのは「父」であり、正確なところは分からない)。
気配で顔見知った彼だとはわかっているのだが、物心ついた頃から身に染み着いた癖は抜けることはない。

「起こしちまったかィ」
「…ううん、起きてた」
「おばちゃんが飯を食わねェって心配してたぜ」
「…慣れないんだよ、箸は」
「ほれ」

縁側から投げられた握り飯を受け取る。竹の皮に包まれたそれは、自分のために「母」が用意してくれるものだ。上がるぜィ、と少年は草履を脱ぎ捨てて縁側へ上がってくる。山崎も傍へ座り、握り飯にかぶりついた。柔らかい塩鮭が覗く。
食べながら、庭から拾った砂利を松へ向かって投げている少年を見る。彼の髪の色は薄い。日に透けるので夕焼けの日などは特に綺麗だ。初めて見たのは夕焼けの日で、山崎はお迎えがきたのだと思ったほどにこの世のものとは思われなかった。まだあどけない顔つきであるけれど、普通の少年とは違うのは何となく分かる。

「…おい、当たるかィ」
「…」

あぐらをかいた足に落ちた鮭を拾って口に入れ、山崎は沖田の手から小石を受け取った。
松の幹を見つめ、そこへ狙って投げるとピシリと当たる。途端に少年は顔をしかめ、袴をからげてまた砂利を拾いに行った。本当は梢にも当たると思ったが、彼の性質は見抜いたのでそれはしない。

「…総悟さん、あんまりやったら怒られる」
「当てたのはテメェだ」
「…」

大小とりどりに砂利を拾ってきて、再び縁側に腰掛けて石を投げ始めた。力が足りずに届かなかったり、脇に反れてしまったりとなかなか当たらない。
癇癪を起こした彼は残りの砂利を庭へ投げ捨て、ずいと山崎の正面に座る。じっと目の中を探られる。

「…お前は」
「あら総悟さん、いらしてたの?」
「…こんちは」

廊下からの声に、渋々と言った様子で彼は応じる。廊下からこっちを見ているのは「母」だ。柔らかい人柄で、山崎は彼女が笑うとどきどきして何も言えなくなる。そんなにも自分を気にかけてくれる人は初めてだった。
そこの少年が総悟と言う名だと教えてくれたのはこの人だ。雀も松も彼女にその名を教わった。

「…退さん、食べてくれたのね。それをもらいましょうか」
「え、…あ、うん、」

何のことかわからずに少し迷って、山崎はすぐに握り飯を包んでいた竹の皮を持って傍まで行く。手渡すとありがとうと微笑まれ、その言葉は自分が言う言葉だと分かっていながらも山崎は何も言うことが出来なかった。

「総悟さんがいらしてるならお勉強をしましょうか」
「げぇっ、いいよ、先生忙しいだろィ」
「いいえ暇にしていますよ。呼んできますから準備をなさい」
「チッ、悪ィときに来た」

彼が舌打ちしたのをたしなめ、「母」は山崎に笑いかけて廊下を歩いていく。

「俺ァ帰るぜ」
「! 駄目だよ!」

縁側から逃げようとする沖田を慌てて捕まえて引き留めた。山崎は「母」以上に「父」といるのは緊張する。と言うのも彼は医師で、怪我の治療をされたときの恐怖が山崎の体に染み着いているのだ。初めて受けた治療と言うものは怪我をするよりよっぽど恐ろしかった。
引き留められたので総悟は仕方なく部屋の中央に座り、机を持ってこいと言う。部屋の隅に置かれた文机を山崎がふたつ運び終わった頃に「父」が顔を出した。

「やぁ総悟くん、久しぶりだな。君は私を見ると逃げてしまうから」
「あんたが人の顔見りゃ勉強勉強と言うからでさァ」
「そうは言われても君のご両親や近藤くんに頼まれているからなぁ。さぁ、名前を書いてご覧」

彼はふたりの前に座って既に磨ってきた墨を硯に入れた。机に半紙が置かれ、総悟は黙って筆に墨を吸わす。「父」は山崎を振り返り、君も、と半紙を渡した。
山崎は決まりが悪そうに総悟を見る。文字の善し悪しは山崎には分からないが、正座の延びた背筋や真っ直ぐ立った筆など、彼の姿勢は美しい。それを察してか、「父」は山崎に笑いかける。

「正座が出来なくてもいい。総悟くんなどは見かけ倒しだ」
「なんだとおっさん」
「先生をおっさんと呼ぶような少年に心のこもった文字は書けないよ。さぁ。書くのは好きだろう?」
「あ、」
「見ていれば分かる」
「…」

山崎は不器用に筆を持ち、「父」の顔色を見ながら半紙に当てる。新しく受けた、山崎と言う姓。それから生まれ持った名を。

「…君は、名を変える気はないか」
「…名?」
「退と言う名を。勿論君が決めていい」

山崎はその字が持つ意味をよく知らない。知らないなりに、あまり良い名でないことは分かっている。総悟に貶される以前にも何度となく嗤われた名だ。それでも。

「…でも、俺だけのものだから」

 

 

*

 

 

あの日死にかけていた自分を拾ったのは総悟だと言う。彼のなりで自分を引きずって運んだというのだから、自分は相当情けない体なのだろう。
目覚めたときには誰かの背中で、ブツクサ言いもって歩く男の背中から逃げようとしたら怒鳴られた。それが土方、…今のところ、山崎の目前で女を口説いているあの男だ。尤も、彼は山崎に気付いていない。河原で足だけを水につける女に話しかけてはあしらわれているが、女の方も満更ではない様子だ。土方における印象は、何とも言い表しがたい。初めに怒鳴られたときは恐怖を覚えたが、直後に総悟に臑を蹴られて悶絶する様を見せられよく分からなくなった。

「退」

声を潜めて総悟が近付いてきた。ようやく彼の気配から逃げることはなくなったが、外であると少しびくりとする。

「どうでィ、…あ、ダメだなァ。ありゃ遊ばれてるだけだ」
「土方さん下手なんだよ、うまく言ったつもりで滑るから」
「情けねぇなァ」
何か不満気な様子をしながらも、総悟は物陰から土方の観察を続ける。
「土方さんに石投げつけたら怒ると思うかィ」
「総悟さんじゃ当たらないよ」
「…当てる!」
「…」

扱い方を間違えた。
総悟はしゃがみこんで石を探す。河原の石はどれも丸いが、小さいとは言い難い。手の平に握り込める大きさの石を選び、総悟は土方を狙う。

「…行くぜィ」
「…」

緩い緊張感。山崎はわずかに戸惑いながら時間が進むのを待つ。総悟がヒュッと投げた石が、────土方の腕に当たった。総悟がガッツポーズを決めた瞬間、般若の形相で土方がこっちを睨む。

「…総悟ッ!」
「やべッ」
「げっ、待ってよ!」

山崎を置いて走り出した総悟を慌てて追う。女が土方をからかう笑い声が追いかけてきた。土方はふたりを追うにも追えずに顔を真っ赤にしてうろたえているのだろう。
ふたりで河原を駆けながら目を合わせ、総悟が笑って山崎もつられて笑った。笑ううちに止まらなくなり、一度総悟が人にぶつかって足も笑いも止まるが、それが近藤であったので何故かふたりはまた笑いだした。
もう何故笑っているか分からなくなってきたが、山崎は一生分笑っているような心地で腹を抱えてしゃがみこむ。段々呼吸は苦しくなってきたのに、楽しいと言う思いが分かってきて止まらない。

「あ〜…子どもは何で笑ってるのかわからんからかなわんなァ」

困った顔で生やし始めた顎髭を撫でる近藤を見て、一度は我慢しかけた総悟も堪えきれずに笑い続けた。そのうちに近藤も笑いだし、ひょいとふたりをそれぞれの肩に担いで歩き出す。山崎はそれに驚いて笑いは止まってしまったが、総悟はまだひくひくと笑っては弱い力で近藤の背中を叩いた。

「近藤さん、やっぱりその髭はおかしいぜィ」
「何だよ失礼だな、それで笑ってたのか?」
「違うけど、あれ?何だっけ」

沖田もわけがわからなくなっている。
何だそれはと今度は近藤が笑う番で、笑いの豪快な彼が笑うたびに肩が揺れるので山崎は慌てて着物を掴む。それを近藤が見たのを、何と考えたわけではないけれど思わず手を離したら落ちそうになった。

「何してんだィ」
「あ、あの」
「どうした?」
「あ…」
「…お光さんがな、山崎さんとこの息子を見たいってうるせぇんだ。今大丈夫か?」
「姉貴なんかほっとけばいいんでさァ。おい退、山の方行こうぜィ」
「そうか?折角お光さんが団子作って待ってるんだがなァ」
「…しょうがねぇから団子食ってからにしてやらァ」

素直じゃない総悟を笑い、近藤はふたりを担いだまま歩き出す。土方よりも背中は広く見え、肌から汗の匂いがするが山崎にはそれも新鮮だ。
緩やかに上下する背中で、総悟が飴を差し出してくる。初めて見たそれに困惑し、山崎は分からないまま沖田がするように口に含ませてみる。どきりとするような味が乾いた咥内に広がり、山崎の体が一瞬硬直した。

「うん?どうした?」
「あ、悪ィ薄荷だったかも」
「はっか?」
「いや、違うじゃねぇかそれ。びっくりさせんな」
「おい総悟、薄荷だけ残すのやめろよ」
「嫌いなんでさァ。近藤さんにあげますぜ」
「うーん…」

近藤は苦笑しながら歩いていく。山崎も何度か行った道場へ向かっているのだろう。
近藤や土方は武士であるそうだ。総悟は自分もだと主張するが土方には相手にされない。武士と言うのに対して山崎はずっと怖い印象を抱えていたのが、土方は少し怖いけれども近藤は暴力らしいものをふるわないので山崎は驚いている。近藤の周りには沢山人がいるのにも驚かされた。山崎も人は沢山見たけれど、あんなに大勢の名を知らない。
道場へ帰り着くまでに口に入れた物は消えてしまい、その頃になって甘みだと思い出した。

「あっ、近藤先生お帰りなさい!」
「お帰りなさい若先生!」
「おぅ帰った。お前ら早いな、時間はまだだろう」
「どうせ家にいたって暇なんです」

見知らぬ男の声に慌てて、山崎は近藤から飛び降りた。逃げ出しかけたのを、近藤がとっさに襟首を捕まえる。それに背筋を凍らせ、山崎はその手を払って走り出した。総悟がすぐにそれを追いかける。

「退!」
「ッ…」
「退!それ以上逃げたら許さねぇぞッ、テメェは俺が拾ったんだ!」

声は聞こえるけれど山崎は足を止めない。気付いたら草履もどこかへ残してしまったようだが、元より履き慣れていないものだから一向に構わなかった。総悟の声が途切れた、と思った矢先。
ガツン!

「イッ…てぇえ!何…?」

何かで後頭部を殴りつけられて立ち止まる。振り返ると地面にはドロップスの缶が転がっていて、それを拾ってもう少し向こうを見れば総悟が仰向けに倒れ込んでいた。

「そ、総悟さん!」
「ッハァ、くっそ、…テメェ」

慌てて駆け寄ると総悟は息も荒いまま、山崎を見上げて睨む。

「俺が拾ったんだ」
「…うん」
「お前は俺に付き合って遊んでりゃいいんだ、逃げなくたって俺以外はテメェに悪さはさせねぇ」
「…総悟さんはするんだ」
「俺のもんだからな」
「…俺じゃなくていいじゃん、親のいないガキなんか沢山うろうろしてるよ」
「俺ァお前がいいんだよ」
「…」

自分にこんなに執着する人間を、山崎はもうひとり見たことがある。総悟よりずっと大人であったが、人とも獣ともつかない暮らしをしていた。総悟の言うことは彼と殆ど変わらない。
それなのに山崎は拾われてからようやく安堵というものを覚えて、さっきまで笑っていたことなど嘘のように泣き出した。総悟がぎょっとして跳ね起きて、着物の袖で強引に涙を拭う。それでも山崎の涙は尽きなくて、総悟は困って山崎の頭を撫でた。
しばらくそうして、立ち上がって山崎の手を引いて歩き出す。草履を片足ずつ見つけては泣き続ける山崎に履くように促し、そのうちに心配して追いかけてきた近藤が追いついた。泣いている山崎に大いにうろたえた近藤は、やはり困った末に山崎をそっと抱き上げる。山崎も逃げずにしがみついて、その足から落ちた草履を総悟が拾って歩いた。

「総悟〜、どうしたんだ?」
「俺が聞きてェ。そいつすっげー足早い、反則だ」
「そうか、足が早いか。退くん、どうした?さっきのお兄ちゃん怖かったかな、あれは顔は怖いが優しい男だぞ」
「若いのに禿ですからねィ。お兄ちゃんってかおっさんじゃねぇか」
「…いや総悟、あれは坊主だろ?」
「禿隠しに丸坊主に決まってらァ」
「でもなァ、あれでも俺と同じぐらいだしな…俺も危ないのかな…」

近藤の歩く歩調に揺られるうちに山崎も落ち着いてきて、ぐすりと鼻をすすって涙を拭う。
ふと見れば手にドロップスの缶を持ったままで、総悟を見ると目が合った。差し出そうとするが彼は両手にひとつずつ持った山崎の草履を見せる。

「あんたにやりまさァ」
「…」
「半透明は薄荷だから気をつけろ」
「分かんないぞー、退くんは薄荷平気かもしれないしなぁ?」
「…」

ひっくとしゃくりあげてきて山崎は返事のタイミングを失った。また道場が近くなり、門の辺りで半泣きの坊主頭がうろうろしている。

「あっ帰ってきた!」
「うわっいい年してみっともねぇな」
「だってよ〜、ぼっちゃん。俺のせいで逃げられたんじゃねぇかと…」
「ぼっちゃんって呼ぶんじゃねェよ!逃げた上に怖がって泣き出したぜ」
「わぁっ!ごめんよ!」
「…ふっ、」

思わず顔を綻ばせた山崎に、男は硬直する。その顔がおかしかったのか、山崎がまた笑うので男は何故かポッと頬を染めた。山崎が笑うのを見て、近藤は一安心した様子で総悟の頭を撫でて中へ入る。

「ただいまー!」
「やっと帰ってきた!その子が山崎さんちの?」
「ねーちゃん団子!」
「やっだー可愛い!でもどうしたの?なんか泣いてたみたい」
「いやちょっとな…」
「ねーちゃん!」
「ジャリがうるさいわ」
「…」

総悟が無言で蹴りを加える。姉は笑顔のままそちらを見ずに蹴り返した。総悟の方がダメージがでかい。

「名前は?」
「…さ、…さがる」
「さがる?あら…」

彼女が一瞬表情を変えた。山崎はそこで父の言葉を理解する。名を変えないかというあの問いの意味。

「団子出せ!」
「…あーもーやかましい!」

総悟の頭をがしりと掴み、お光は総悟を見おろした。逆光の中、彼女の目だけがぎらりと光る。

「それ以上お姉様に逆らうならあんたでみたらし作るわよ?」
「………年増」
「頭かち割ったらァッ!あんたッ得物持ってきな!」
「わーッお光さん落ち着いて!」

慌てて近藤がお光を取り押さえ、思わず手放された山崎が総悟を取り返す。それでも尚総悟を狩ろうとするお光に、旦那も縁側から駆けつけた。

「イッテェな!この山姥!」
「誰だッ誰が山姥だ!」
「み、みっちゃん!落ち着いて!」
「くうぅ…止めるなこのクソ旦那!」
「…みっちゃん」
「…あ」
「みっちゃん…」
「…」

じっと旦那に見つめられ、お光は徐々に力を抜く。

「…ごめんなさい」
「うん」
「ごめんなさい、悪気はないの」
「うん。ほら、彼びっくりしてるよ」
「ごめんねさがるくん」
「……」
「クソババ」
「そこのガキは殺す!」
「近藤先生ー、そろそろ稽古を…あれ、姐さんまた暴れてるのかい」
「あん?」
「お光さん! す、すぐ行くから!」

近藤が門下生を追い返し、口から炎でも吹きそうなお光を男ふたりがかりで縁側に座らせた。守るつもりで飛び出していた山崎も気付けば無意識に総悟の後ろに隠れている。

「近藤さん、道場行くのかィ」
「あぁ」
「俺も行く!」
「総悟もか?今日はなァ…お前と折り合いの悪い奴等も何人か…」
「知るかィ。…退も出来るしな」
「え、」

何故。総悟の断定された言葉の意味が理解出来ない。山崎は知らずに手の平に汗がにじむのを感じる。

「ほらっ、行きやしょう!」

総悟が近藤の背中を押していき、山崎も残されては困るので後を追う。
道場に近藤が足を踏み入れると集まっていた男達が静かになった。その緊張感に山崎は足を止めたが、総悟が入っていってそれは崩れる。

「あっまたそのガキ!近藤先生勘弁して下さいよ、邪魔なんだこいつ」
「しかしなァ」
「構うことはねぇぜ近藤さん、自分に力がねぇのを俺のせいにしてるだけでさァ」
「何だとッ!?」
「この中の一人だって俺に勝てねぇに決まってらァ」
「でかい口叩きやがって」
「トシ」

ずんずんと前へ歩いてきたのは土方だ。難しい顔で総悟を睨む。

「あの女にはふられましたかィ」
「うるせぇなほっとけよ!」
「何だまたふられたのか」
「いっちゃんに言われたくねぇ!その話は後だ!そんだけ自信があるなら俺から一本取ってみやがれクソガキ」
「一本でいいんですかィ?」

にやりと土方を見上げるその表情は、十に届いたばかりの子どもではない。ぞくりと背筋を走ったものを振り払い、土方は近藤に竹刀を渡してやれと言う。

「トシ、総悟も落ち着け」
「近藤さんいっぺんやらして下せェ、いっつも子ども扱いじゃねぇか。俺だって門下生だぜィ」
「しかしな、防具とか…」
「そんなもんいらねぇから」
「…」

どちらにも引く様子はない。近藤は呆れて溜息を吐き、それならやってみろと総悟に竹刀を渡した。それは総悟の体にはアンバランスに長い。
不格好を笑う閲覧客を一睨みし、総悟は土方に構えた。相手も静かに構える。そして、近藤が声を上げた瞬間にそれは始まった。総悟が飛んでつっこみ、竹刀同士がぶつかり合う。
結果は────

「イッテー…」
「はは、やられたなぁトシ。油断し過ぎたんじゃないのか?」
「何やってんだよ土方ァ!十の子どもに負けやがって!」
「お前にはプライドがないのか!?武士の魂はどうした!」
「やかましいんだよ傍観者!文句があるならテメェでやれ!」

勿論一番悔しいのは土方だ。子どもとは言えなめてかかった。何より土方は総悟の剣を見たことがなかったのだ。総悟は土方の癖まで見抜いて攻めてきた。恐ろしいと素直に思う。

「退」
「えっ、」

先に土方が取り落とした竹刀を総悟が山崎に蹴る。拾えと言われて拾いはするが、どうしていいか分からない。

「出来るだろィ?」
「総悟?」
「近藤さんはちょっと見てて下せェよ」
「ちょ、総悟さん、」
「型ァなんざどうでもいい。出来るように構えろ」
「出来ない、」
「見たんだぜィ」
「…」

心臓がどきどきうるさい。耳の中に心臓があるような心地かする。

「退」
「出来ない!」

山崎が竹刀を捨てて走り出す。
出来るわけがない。総悟に向かっていくなど。
どうして殺す気になど成れようか。