逃 げ 水

 

「───逃げ水ですね」

少女はぽつりと、しかし凛とした声で言った。
ガクンと一瞬車が揺れる。土方の位置からはそれは見えず、答えるタイミングを失って黙り込んだ。
舗装された道の上に、ゆらゆらと見える逃げ水。もう長いこと目にしていないのは、そんな余裕がないからだろうか。
土方の隣に少女、そしてその隣には無口な隊士が同乗しており、彼は当然のように返事をしない。

役人に挟まれて座る少女はあくまでも気丈な態度。まるで連行するようだった。
少女に非は、確かにある。仕事であるから土方はそれを全うしたまでで、感情とは別だ。

「土方さんとおっしゃいました?」
「…はい」
「蝉の声はお好きですか?」
「…はぁ、蝉ですか」
「そう、蝉です」

防音こそしていないものの、外界を切り離した車内には蝉の声はエンジン音に負けてしまう。
蝉の声、そんなものをいつから意識しなくなったのか土方は忘れてしまった。

「さっき久しぶりに側で聞いて、あんなに大きな声だったかと驚きました。あんな小さな体なのに」
「はぁ…蝉なんてもっと早くから鳴いていたでしょうに」

ガタン、また車が揺れた。
開国してから舗装された道であるのに、なぜこんなに揺れるのか。まるで帰りたくないかのように。
少女の体が振動に合わせて傾き、長い黒髪が土方のYシャツの腕を撫ぜる。

「…城には殆どいないんです、以前いらした天人の方がうるさいとおっしゃられてから、見つけたらすぐに他所へやってしまうから」
「…」
「それに、どのみち私は外へ出してもらえないので」
「…」

少女の言わんとするところが分からない。
また逃げ出そうと言うのか。
同情を誘うつもりなら相手が悪い、近藤ならば叶ったかもしれないが。

「…土方さん」
「はい」
「お願い、」
「…」
「あの子には何もしないで」
「……」
「友達なの」

「…ひとり、側に残してきました」
「!」
「そいつァ友達なんざいらなくて、剣だけを見てここまで来たやつでしてね」
「…」
「───…だから、きっと何もできねェと思いますがね」
「…約束して下さいます?彼女に何もしないと」

突然、派手にタイヤを鳴らして運転手がハンドルを切る。
短い悲鳴を上げて少女が土方の膝に倒れこんだ。髪が乱れて広がる。少女であるのに、髪が長いだけで酷く女に見えた。
少し焦って、少女を抱えて起こす。

「大丈夫ですか」
「ええ、」
「オイ何やってんだ!」
「すっ、すいません!猫が飛び出してきて!」
「ったく…怪我でもしたらどうするんだ」
「あ、すみません…気をつけますね、私が怪我をするとあなた方が怒られるのでしょう?」
「…そいつァ関係ない」
「え?」
「女の子が顔に傷でも作ったら大事だ」
「…私には関係のないことです」
「どうして、」
「恋なんて出来ないから」

ガタン、車はまた揺れる。
ガタガタと振動が続く間、会話も切れた。冷房の入っているはずの車内なのに、涼しさはない。

「───私が欲しいものは全て逃げ水のようですね」
「…」
「近付くと離れてしまって、手に入らない」

初めての友達だったの。
少女は小さな声で。

「…一日きりの友達でも、ずっと友達と言えるのかしら」

答える人はなかった。
少女は真っ直ぐ前を見つめる。まだ逃げ水は見えているのだろうか。凛とした横顔に、一筋涙が伝った。

「約束は出来ません」
「…」
「あのチャイナが、姫に何かしたのであればとらえます」
「…何もされてはいません」
「泣かされてます」
「…」
「…友達なら、それもよくあることですけどね」
「───…ありがとう」
「何がです?」

ガタン、一瞬突き上げるような揺れ。

「ひとつだけお願いしてもいいかしら」
「…ふたつ目ですがね」
「酢昆布を買ってきていただけません?」

 

041114