「山崎くん明日だねぇ」
「あはは…なんか照れますね」

職員室の前を通り過ぎようとしたのに足が止まった。
今日は絶対に会いたくなかったのに、部活に来ただけだから会わないと思ったのに。

「恥ずかしいなー、来なくていいですよ」
「いやいや、いいもの食べに行くよ」

教師達の笑い声。まっすぐ帰れなくて、宛もなく教室へ向かう。足は重い。

(…煙草…忘れてきた…)

ポケットに手を入れれば、ライターだけがそこにある。何気なく来た自分の教室、しっかり施錠されていて中に入れない。
────惨めだ。すぐに帰る気にもなれなくてドアに寄りかかった。早く帰って煙草を吸いたかったが、さっき山崎は帰り支度をしていたようだから鉢合わせは避けたい。

「じゃあまた明日」

────…声。
足が一歩、二歩と進み、ベランダ状になった廊下の手すりを掴む。…真下から、声がする。視界がぐらぐら揺れるような気がした、気のせいなのに。深呼吸をして下を見下ろすと山崎と目が合った。どうしてこっちを見るのか。

「山崎ッ…」
「あ、土方くーん」
「あっ…」

今度こそ視界が揺らいだ。一瞬にして水没、手すりを掴んだまましゃがみ込む。山崎の疑問符が飛んできたが、もう動けなかった。自分で制御できない涙が尽きず、肺が軋む。くるしい、
誰かの足音がした、そう意識した瞬間に背中にどかりと座られる。煙草の匂い、視界の端に映るのはしわの寄った白衣。

「泣いてんの」
「消えろッ────」
「若いね」
「…なんでッ…」

問いの意味は誰にもわからない。涙は止まらないのに、背中に乗った担任は煙草をふかす。
手に入らないことはわかっていたのに、どうして今日が最後だなんて思ったんだろう。最初も最後もなかったはずだ。

「あれ、銀八センセ…ってどこで煙草吸ってんですか!」
「廊下」
「つーか土方くん!」
「これは俺の椅子です。山崎ちゃん帰ったんじゃないの?」
「土方くんが引っ込んだから心配で」
「明日でしょ、さっさと帰って準備しなさい。これは俺の生徒だから、俺が片付けるよ」

わざわざ上がってきたのか。つくづくお人好しな態度に、声を殺す。

(今なら 舌 噛み切れそう…)
「…じゃあね、土方くん。また月曜に」

納得いかないが、と言わんばかりの不満げな声。銀八が呑気にバイバーイ、と手を振った。

どれだけの時間が過ぎたかわからない。多分一瞬の出来事だったのだろうが、体はひどく疲労していた。痛みを感じて手すりを離すと銀八が奇声を上げて転がる。

「ちょっとォォォ!根性焼き入るとこだったよ!」
「肺が痛い…」

ぐすと鼻をすすりながら訴える。少し動きを止めた銀八は、迷った末に土方の頭を撫でた。

「なんか奢ろうか?俺200円しか持ってないけど学食なら…あ、今日土曜か」
「…煙草」
「…お前ね、教師に向かって…」

それでも担任は箱を差し出した。一本もらい、自分のライターで火をつける。涙は少し落ち着いた。自分の感情と離れたところで時々鼻の奥がツンとする。大きく吐き出した煙はすぐに消えた。

「…煙草の吸いすぎだな」
「……」
「失恋のせいなんかじゃないよ」
「…誰が…」

なんで知ってんだこいつ。しかし問える余裕はない。言葉ひとつでまた泣きそうになる。煙草は苦い。

「お母様心配してたよ、あのまま煙草吸ってたら死にやしないか」
「────二十歳でやめる」

それまでにはもうひとつぐらい恋が出来るだろう。好きになった俺が悪かったのだ。

 

 

銀八先生は寂しい。

060513