04:風鈴の音(三笠)

「あつい」

呟く笠井の頬を汗が流れる。
言ってみたところで暑さが増すような気がするだけではあるが、それでも呟かずにはいられないある種の魔法の言葉。…いや、呪いの言葉だろうか。そして太陽を怨むように、笠井は再度呟く。

「あつい」

そわそわとして落ち着かない。何度も何度もあついと呟いてしまう。
はぁ、と溜息を吐き、それから笠井は気合いを入れて日差しの下へ踏み出した。涼しくはなかったけれど炎天下よりはいくらかましのバス停の屋根の下を抜けて、目的へ向かって。
パリッと蝉がどこかへ飛び立った。蝉が大合唱をする中、こんな真夏の真っ昼間、道を歩く人はまばらだ。白いスカートの女性が日傘を差してすれ違う。笠井は帽子も何も忘れてしまったので、首に巻いていたタオルをかざして。
殺人的だ。汗をぬぐって、何度目かの気合いを入れる。

「…あぁ、」

どこまで歩けばいいんだろう。 アスファルトの照り返しは時間が経つに連れて厳しくなる。見知った道なのに、久しぶりにこれほど歩いてはなんだか未知の世界にも見えていた。
以前中年の夫婦の暮らしていたうちには若いお嫁さんがきて、風鈴の音のする庭で小さな子どもをビニールプールで遊ばせている。思わず立ち止まってしまった笠井に気付き、こんにちはと言った。

「こんにちは」
「暑いわね、遊びに?」
「駅まで、人を迎えに」
「そう…手を貸して」

すぐに温くなってしまうでしょうけど。彼女は黄緑の象のじょうろで笠井の手に水をかけた。
風が吹いて、あ、気持ちいい、と呟く。水はすぐに笠井の体温で温くなり、確かにたいして保ちはしなかったけどわずかな涼も嬉しかった。風鈴の音も心地よい。

「アイス食べる?」
「え、でも」
「アイスって言うか、パキンって割るやつね。食べてくれない?りんごばっかり残っちゃって、この子食べてくれないの」
「はは、ぶどうが先になくなるんですよね」
「そう。よかったら待ち合わせの人の分も」
「じゃあ、遠慮なく」
「待ってて」

ビニールプールのピンクの水着の女の子は、笠井を見てこっちがためらうほどの笑顔を向けた。母親が彼女を撫でて部屋へ入っていく。
普段子どもを見る機会のない笠井は幾つぐらいなのか見当がつかない。まさか小学生ではないことはわかるのだがその程度だ。

「暑いね、プール楽しそう」
「おにいちゃんも入る?」
「あはは、おにいちゃんは入れないかな」
「大丈夫、あきがちっちゃくなったら」
「あきちゃんって言うの?」
「おにいちゃんは?」
「俺はたくみ」
「たくみ」
「うん」
「あきら」

笠井がびくりとして顔を上げると母親がビニール袋を下げて戻ってきている。びっくりした。わずかに暑さも忘れた。

「はいこれ」
「あ、ありがとうございます、こんなに」
「ううんいいの、助かるぐらいよ」
「…あきらちゃんって言うんですか」
「そう、男の子みたいだけどいいかなって」
「俺の知ってる人に、あきらって女の人いますよ。サッカーの監督やってる人で」
「ほんとに?先越されちゃったなぁ」

彼女が笑うのに合わせて笑って、笠井はそれじゃあと歩き出した。ばいばーい、と可愛い声がするので振り返って、ばいばーいと手を振り返す。
それから歩き出しながらなんとなく笑いが込み上げた。袋の中からアイスを出して、食べる前にしばらく額に当てる。 蝉の羽の音が耳に届く。笠井は声よりも羽音が好きだ。ぱきっとして夏らしい。しかしそれも風鈴の音に消され、余韻を残しながら夏に溶ける。
それからは暑さもましになったような気分で駅まで行けば、途中寄り道をしたせいか待ち合わせの人物は既に到着していた。彼を見つけた瞬間思わずにやける。

「あきらちゃん」
「は?」
「はは、遅れてごめんなさい。食べます?」
「何でお前ポッキンアイスとか持ち歩いてんの?」
「だからチューペットだって、絶対」
「うるせーよ、食うけど」

あっちぃな。さっきまで冷房の効いた電車の中にいた彼は顔をしかめる。

「…じゃあ炎天下の中に行きますか」
「タクシー呼んで」
「ご自分で払って下さいね」
「ンな金あるか」

来た道を今度はふたりで戻る。あつい、と笠井以上に隣が呟く。しまいには笠井のタオルまで奪われた。
風鈴の音が戻ってきて、笠井はぴくんと顔を上げる。笠井が腕に下げたビニール袋から、勝手にアイスが奪われていく。それにも構わず耳を澄ますとまだ水音と笑い声はして、笠井は一度立ち止まった。

「笠井?道がわかんねぇとか言うなよ」
「違うけど。…あの、同級生ってことにしてていい?」
「はぁ?」
「ちょっと、…まぁこんなにふてぶてしいんじゃ無理かもしれないけど」
「おい」

笠井がまた歩き出したので、不満の声が後ろからぶつぶつとついてくる。

「あら、もう戻ってきたの?」
「はい、もう来てたので。あきらちゃんまだプールで遊ぶの?風邪ひかないようにね」
「うん。その人おにいちゃんのお友達?」
「そう。この人もあきらって言うんだよ」
「あきちゃんと一緒だー」

そしてやっぱり満面の笑み。合点が行った「あきら」は母親に会釈する。風鈴。

「この人にアイスもらったの」
「あ、どうも」
「いいえ。あきらはどういう字を書くの?」
「あ、えー…りょう、とかも読むんですけど」

こういうやつ、宙に書いてみせると彼女はうなずいた。

「この子は平仮名なの、漢字にしちゃうとほんとに男の子みたいじゃない?」

そのとき「あきらちゃん」がくしゃみをして、母親はすぐに振り返った。笠井がほら、と口篭もる。

「あきちゃんもうプールおしまいしようか」
「やだー、まだ遊ぶ。おにいちゃんも一緒」
「あきちゃん風邪ひいちゃうよ。おにいちゃんももう帰らなきゃ」
「えー」
「ごめんね、また今度一緒に遊ぼう」
「やくそくね、ゆびきり!」

小さな手が差し出され、その指の細さに緊張しながら笠井は濡れた手と指切りをした。ごめんねと謝る母親に笑顔を向ける。

「じゃーね、あきちゃん」
「じゃーねーおにいちゃん、絶対また遊んでね!」

手を振りながらまた別れて、歩き出して可愛いなぁと呟く。

「…笠井くーん、ロリコン?」
「同性の後輩に手を出したどっかの変態よりましです」
「その変態をうちに呼んだやつは変態じゃないのか?」
「……」

笠井が口を閉じると笑い声。ひとりだった行きと違って、隣には40度弱の熱の固まりがあるのに笠井は行きほど暑さを感じない。

「…先輩の声」
「ん?」
「……何でもないです。何か風鈴ほしくなったなぁ」
「うちのやろうか、おやじがどっか行った時にお土産で買ってきた変なやつ」
「変なんですか、先輩とどっちが変ですか」
「お前しつこい」
「…だって」

会いたかったからさ。


050711