夏 火
「ただいま」
あぁ、誰か帰ってきた。山崎はうつらうつらしながら体を起こした。
酷く暑い。体中から汗が吹き出す。まるであの日のようだ。
畳の上で眠ってしまっていたので、腕にくっきりあとが残っていた。その跡がかゆい。気だるい午後だ、嫌になる。「ただいま、誰もいないのか?」
「いるよ、開いてるよ」
「ただいま」
「おかえり」どうも頭が冴えない。畳の上で再び丸くなったまま、出迎える気もなく眠ろうとした。
「ただいま、俺の奥さんは?」
「俺の母さんなら買い物に行ったよ。お供え物が猫に台無しにされたんだ」
「へぇ、俺が行ったのに」
「おかえり、何してるの?」歩き回る足音を聞きながら山崎は頭を掻いた。煙草の匂いがしてくる。
「なぁ俺の奥さんいつ帰る?」
「知らない────」山崎は目を開けた。足が見えた。知っている靴。
「…怒られるよ」
「ん?あ、しまった」足は靴を脱ぎ捨ててた。大きな足。かたそうな踵。
「何処行ってたの?」
「ちょっと遠いところだな。今日は近くなったから帰ってきたんだけど」
「ふーん」足は傍にしゃがみこんで、山崎の頭を撫でた。大きな手。
懐かしい感覚に目を閉じる。「ずっと遠いの」
「ずっと遠い」
「また行っちゃう?」
「あぁ」
「────暑いね」燃えるようだ。あの日のようだ。
────どの日?いつのことだろう。ずっと昔のような、最近のような…「あぁ、まだ帰らないのかな」
「さぁ…」
「早く帰らないと、俺また…」
「また行くの?」
「まだ行くよ」
「そう、────寂しいねェ」汗で濡れた山崎の手を撫でる手。誰だったっけ?
「お前の髪は母さん似だな」
「ふぅん」
「…退」山崎はぱちっと目を開けた。涙が弾けた。
「お母さんに宜しくな」
「────お父さッ…」山崎が体を起こした時には誰もいなかった。
その瞬間には山崎は今の自分が成人していて、真選組に所属する男だと思い出していた。
だから、父はいないはずだ。
今日のような暑い日に、死んだ。「ただいまー」
「!」
「わっちょっと!何この足跡!」
「…なんだ母さんか…」
「ちょっと退、何したん?うわっ、畳にまで!退!」
「母さん」
「何よ、いいわけなんか聞かへんよ」
「お父さんが来た」
「はい?」
「靴のまま上がってきて、母さん帰ってくるの待ってたのに」
「…」帰ってきた母は畳に目を落とす。足跡。無数の大きな足跡。
山崎は父には似なかった。だから手足も大きくない。母に似たから畳の汚れなど許せない。「…何で」
小さく母はつぶやいた。
何で戻ってしまったのか、何で帰ってきたのか、どちらを言おうとしたのか山崎にはわからない。「…夏だからかな…」
夏は境界があやふやになる。近くなったから思わず帰ってきたのかもしれない。母に会うために。────寧ろ会いたくなかったのだろうか。父は長く戦に出ていたので山崎は父をよく知らない。
父は先の天人との戦争中に死んだ。戦ではなく仲間との食い違いで殺された。今日のような暑い日に、死体が見つかった。「────」
母が父の名を呟いた。
百鬼夜行抄を読んだ勢いで。
050817