鏡に向かって髪をとかす。慣れた手つきでひとつにまとめて結い上げて、少し寝癖が跳ねているのに唇をとがらせた。また子どもだとバカにされそうだ。自分を呼ぶ声がしたが聞こえなかったふり、鏡に見入ってどうにかならないか思案する。

「山崎ィ」
「はぁい」

返事をしてからもしつこく粘り、再び呼ばれて諦めた。櫛を持ったまま部屋を飛び出して縁側を走る。

「遅い」
「すんません便所にいました」
「面倒だから言い訳はいい。ちゃっちゃとやってくれ」
「……ほんとに切っちゃうんですかあ?」

黒の単衣を着こなす男は髪を結っていた紐を解いた。その紐を山崎が受け取り、男を見上げる。思いがけず優しい表情を向けられて慌てて顔を逸らすと頭を撫でられた。彼の髪が肩を滑り落ちる音。カラスのような黒い髪は、少し怖くて気になる。伸ばすのにどれだけの時間がかかったのだろう。自分は3年かかった────思いの分、3年。
布を広げて、男を中央に座らせる。持ってきた櫛で髪をすいた。かたい髪は意志を表すように熱い。日向に立っていたのだろう。

「ほんとにいいんですか?」
「いいから切ってくれ。────これから髪を結う時間も惜しいぐらい忙しくなる」
「…はい」

冷たいはさみ。明日には刀を握る手に、はさみを持って。

 

*

 

「綺麗な髪だな」
「…ほんまに?嬉しい。うち髪は自慢なんよ」

肩へ流した髪へ男が手を伸ばす。丁寧に櫛を通した髪はすぐに男の手から逃げ出した。着物の襟を正し、女は紅を直す。なあ、焦った声で呼びかけられるが女は無視だ。

「いつになったら俺はお前の体に触れるんだ?」
「あら…こうして手を取るだけで十分やない?」
「せつ」
「だぁめ」
「せつ、夫婦になる約束をしようとしてもお前はこんなにつれない。お前の本心はどこにあるんだ?」
「お前さま、せつは嘘は申しまへん」
「……いいや、せつ。お前は嘘つきだ!」
「あっ!」

乱暴に髪を鷲掴みにし、女が悲鳴を上げるのも聞かずに引っ張り上げる。その目は至って冷静だが、呼吸だけが荒くて恐ろしい。

「俺を騙してどうするつもりだったんだ?俺は見たぞ、男と逢っていたのを」

舌打ちをしたいのをこらえ、女────もとい、山崎退は唇を噛む。見られていたとは知らなかった。女装をばれずに押し通せたと思って安心してしまったのかもしれない。あれから更に3年────ようやく力を認められるようになったのだ。こんなところでしくじるわけにはいかない。情報を聞き出したくて近づいた男だ。

「やめて!うちやない、うちはあんただけや!」
「ならばどうして俺に抱かれない?俺のものにならないなら…」

ぞくっと背筋に感じるものがあり、山崎は身を震わせた。本能が危機を感じる。男の手に刃物が光った。

「や……」
「せつ、」
「ッ…」

殺意だ。現場へ出るようになってから肌で感じる殺意。戦の場ではなく、こんな場所で感じるのは初めてだ。逃げなければ殺されるとはっきり感じた。涙がこぼれてくる。明確な恐怖だ。また強く髪を引っ張られ、山崎は決意する。手の平に爪を立てて震えを押さえ、ぐっと息を飲んで刀を握る男の手を捕まえた。

 

*

 

「土方さん!」
「うおっ」

見廻り中に何かが飛びついてきて土方は体を硬直させる。しかしよく見れば腰に巻き付いているのは女で、更に確認すれば山崎だ。顔中を涙で濡らし、必死で土方の服を掴んでくる。どうしたのか、とりあえず泣きやまそうとするが生憎ハンカチなどしゃれた物は持っていない。任務中のはずだ、何かあったのだろう。子どものように泣く山崎に、そういえばまだ14なのだと思い当たった。往来では目を集めるので脇道に入る。落ち着かせようと肩を抱いて、初めて髪に気づいた。ずっと伸ばしていた髪は短く乱雑に切られている。

「山崎、お前髪は」
「にっ…逃げようと、掴まれたから」
「何があった」
「すいません、俺、」
「ばれたのか」
「違うんです、あいつが…」

顔を上げた山崎が体を震わし、素早く振り返って路地の奥を見る。土方も続くとそこには一房黒い髪を掴み、片手には刃物を持った男が息も荒く立っていた。その目は正気じゃない。

「おいおい…熱烈じゃねえか」
「せつ、」
「やだっ…」
「こいつか、安田…殺しちゃまずい奴だよな」
「だめ、です、証人…」

どっちにしろこれほど怯えた山崎がいては無理だろう。土方の腕を指が食い込むほど掴んでいる。────そうか。彼はまだ静かな狂気を知らないのだ。激しい喧嘩の中では誰もが怒号を上げ、殺意に満ちている。ひたひたといつの間にか取り巻いている悪意はタチが悪い。その爆発を直接向けられたのなら尚更だ。

「俺のせつから手を離せ」
「…お前女装禁止だな」

山崎はまだ若い。器用で使いやすいからつい頼んでしまうが、男女の世界も知る前だ。無茶をさせたことを後悔する。焦っていた自分とて未熟であった証拠だ。

「────ひとりで戻れるか」
「!」

目に恐怖が浮かぶ。涙を流しながら首を振り、無言で土方に訴えてきた。舌打ちをして肩を抱き寄せる。敵を見た。あんなもの、日常を送っている大通りへ放つわけにはいかない。

「……山崎、歯を食いしばれ。真っ直ぐ屯所に走れ」
「やだ、」
「頼む。目を開けろ、お前は何も怖くない」
「嫌です!」
「お前が行かねえってんなら、俺はあっちに突き出すぜ」
「!」

思わず土方から逃げそうになり、そして山崎は彼の手の震えに気づく。彼は────恐れている。背後にある平和の重さに怯えている。

「せつ、こっちへ。怒って悪かったよ」
「…土方さん、すぐ…戻りますから、」
「おう」

肩を強く叩く。

 

*

 

泣きじゃくる山崎が流石に鬱陶しくなってきた。怪我の治療をさせているが、さっきから手が震えて何度も包帯を巻き直している。

「…大丈夫だからしっかりしろ!」
「だ、だって俺のせいで…」

戻ってからずっとこの調子だ。…一番被害を受けたのは自分だとわかっているのだろうか。心に受けた傷が一番厄介だと言うのに。この調子ではいつまで経っても治療が終わらない。山崎の手を離して頭を撫でた。一瞬泣きやんだ山崎は土方を見たが、すぐに目尻に涙が溜まる。

「すいません…」
「お前はしっかりやった。それどころかお手柄だ、長い間頑張ったな」
「だってッ、予定ならまだ…」
「予定なんざ気にするこたぁねえ。問題もねえんだ。…ま、お前はしばらく外出禁止だがな」
「!」
「……あいつと外歩いてるだろ。ほとぼり覚めるまでだ」
「すっ…捨てないで、下さいね…」

震える手が土方の着物を掴む。言葉を探して不揃いの毛先を触った。願でも掛けていたのか、ずっと伸ばしていた髪。

「捨てねぇよ」
「もう次は、失敗しませんから…ッ」
「わかったって」

包帯が滑る腕で山崎の肩を抱く。ずっと山崎は強いと思っていた。疲れ知らずとからかわれるほど元気に走り回り、こんな泣き顔など誰も見たことがなかったはずだ。それほど恐怖だったのだろう。今は、ひとりになるかもしれないと言う恐怖に怯えているようだが。こんな姿の山崎を見て、誰が捨てる気になるだろう。干からびるのではないかと心配するほど泣いていて、治療に持ってきていた手ぬぐいを顔に押しつけてやる。

(…手ぇ出しそう…)

事件が事件でなければつけいる絶好のチャンスなのに。隠し続けてきた思いが綻びそうだ。土方とてあの男と一緒だ。そのうち静かな狂気に襲われるのだろうか。そのときは腹を切る覚悟だ。頼むから泣きやんでくんねーかな。もしくは他の場所で泣いてほしい。それでも土方は肩を抱いた手を緩められないのだ。

 

*

 

「イッ」

眩しさに目を開けるとまぶたが引っ張られ、山崎は痛みに目を押さえた。枕にしていたものから体を起こして畳に座る。昨日泣きながらいつの間にか寝てしまったようで、涙でまぶたがくっついていたようだ。バリッて言った、あれだけ泣いたのにまだ涙が滲む。慎重に目を開くと障子が開けっ放しになっていて、庭から朝日が差し込んでいた。いつもと変わらない朝が来たことに、山崎は少し驚いた。目の前が真っ暗になっていたのだ。絶望の淵に立っていたような気分だったが、眠ると多少落ち着いたらしい。

ところでここ誰の部屋だっけ。勿論考えるまでもなくわかってはいるのだ。ついさっきまで枕にしていた誰かからは必死で目を背ける。そっと這って逃げ出そうとしてみたが、何故か着物を掴まれていた。

(サイッテー…!)

失敗に続くこの失態。幾ら動揺していたとはいえ、捨てるなと泣きついてしまった。迷惑したに違いない。おまけに、おそらく山崎が寝てしまったせいで身動きが取れず、彼まで畳の上で寝ているのだろう。

「…起きたか」
「はいぃっ」

返事の声が裏がえり、笑った気配がした。ちらりと振り返れば、思いの外優しい目を向けられる。

「…土方さん」
「今日は忙しいぞ、報告書書いたりな」
「……」
「…やめたかったらやめていい」
「!」
「捨てるんじゃない。今回のは俺のせいだ」
「…ひ、」

土方さん、名前を呼びたかったのに声が出なかった。零れる涙を押さえきれずに、彼の胸に泣きつく。温かい手が頭を撫でた。まだ泣けるのかよ、と呆れた声。

「やめません」

涙に震える声が、それでもはっきりとそう言った。今後何があろうとも、あなたの手となり足となり、命さえも盾にしましょう。今までこの大きな手に護られていたことに初めて気づいた。これからは、この手であなたを。

「…髪そろえてやろうか」
「…土方さん」
「お前みたいに器用にいかねえだろうがな」
「……もう泣かすのやめて下さいよ…」
「なんで泣くんだよ」

卑怯な優しさに気づいていないのか。胸が痛くなる思いを抱え、今日で最初で最後にしようと土方にしがみつく。もう二度とあなたの前で泣くまい。もう二度とあなたに心配などさせまい。土方の着物を濡らしながら決意する。